現成公案 私家版現代語訳

道元正法眼蔵「現成公案」は、1233年の中秋の候に制作された。

昨年9月に私訳を行なったが、いくつか気になる点があり、再度手入れをしてみた。改めて一語一語を噛み締め、思い至ること多々。来年も機会があれば再訳してみたい。なお、この拙訳では、禅に関わる専門的な用語を日常的な言葉に置き換えているが、これにより失われる意味の深さもあるかと思う。興味のある方は、非常に美しい原文を是非直接手にとってほしい。

 

現成公案

 

ありのままの姿。そこには、迷いや気づき、どこかへ辿り着きたいという思いや行動、生や死、優劣などがある。
”私”をなくしてみると、迷いや気づき、優劣、生死もなく、ありのままの姿とは、そもそも概念を飛び越えている。二項対立のないかたちで、生死や、迷悟、優劣が存在している。
とはいえ、花は愛おしく散り、草は嫌がられながら生い茂るのだけれども--。

 

自分であれこれと考えるのが迷いであり、おのずと世界の方から成立してくることを知るのが気づきである。迷いの中で気づくのは目覚めた人であり、気づきに迷うのは普通の人だ。気づきの上にさらに気づきを得る人もいれば、迷いにまた迷う人もいる。目覚めている時には、自分の目が覚めているという心持ちにはならないが、そうであっても、覚めているのは明らかであり、目覚めを実践している。
逆に全身全霊で五感を傾け、つぶさに観察したとしても、鏡に姿が映るようにはならない。水と月のようにはならない。一方に光をあてれば、もう一方は暗くなってしまう。

 

気づきを学ぶというのは、自分自身を知るということであり、自分自身を知るというのは、自分を忘れることである。自分を忘れるというのは、世界のほうから立ち上がってくるということであり、世界の方から立ち上がってくると、心や体といった自己に関する固定的な考え方は脱ぎ捨てられてしまう。
気づきの後にはそこで休むこともあるだろう。休息の気づきの先にも、さらに長い歩みが待っている。
自然の摂理を求め始めたとき、人は真理の辺境からもはるかに離れているものだ。一方、自然の摂理がすでに身に宿っていると一旦気づいてしまえば、たちまち本来あるべき姿へとたどり着いてしまうだろう。
船に乗っている時に、視線を外に向けていると、岸が動いていると見誤ることがある。しかし視線を手元へと移せば船が動いていることに気づく。これと同じように、あれこれと考え世界を理解をしようとすると、自分自身の心や存在が常にあるものと勘違いしてしまう。もし、先人の行いをつぶさに学び、そこへと帰っていくのであれば、すべての物事に”私”がないことは明らかである。

 

焚き木が燃えて灰になる。それが戻ってまた焚き木になったりはしない。とはいっても、灰が後、焚き木が先と理解すべきではない。焚き木には焚き木としてのそれ以前、それ以降がある。前後があると言っても、それは断ち切られた前後−同じものではない−のである。同様に、灰も灰としてのそれ以前、それ以降がある。焚き木が灰になると元には戻らないように、人も死ののちに、生になったりはしない。
だからこそ、生が死になるとは言わないものだ。生も死も自然の輝きの一断面であり、自然には始まりも終わりもないから不生と言う。死が生にならないのも自然の摂理である。限りのあるものではないのだから、不滅という。
生も死も一時のありようだ。たとえば、冬と春のようなもの。冬が春になるとは思わないし、春が夏になるとは言わないものだ。

 

ひとが気づきを得る、ありのままでいるというのは、水に月が宿るようなもの。その時、月が濡れるということもないし、水面が破けてしまうこともない。
広く大きな光だけれども僅かな水にも宿り、月全体も天空も、草の露に宿り、一滴の水にも宿る。
気づきがひとを損なわないのは、月が水を穿たないようなもの。ひとが気づきをさまたげないのは、しずくが空や月を拒まないようなもの。
水の深さは境涯の高さのようなもの。一方で、年月の長さについては、水の大小を確認し、空や月の広狭を調べるようにすべきだろう。

 

心身に自然の摂理が行き渡らない間は、すでに道理が満ち足りていて、何でもわかっているように感じる。一方で、もし道理が心身に充足した場合には、逆に何かが足らないように感ずるものだ。
たとえば大海原に出て回りを見渡すと、ただただ丸く見え、異なる風景が見えることもない。とは言っても海は丸くもなく四角くもなく、その向こうの海のありようが見渡せないのである。海は大きな宮殿のようであるかもしれないし、無数の宝石からなる髪飾りのようなのかもしれない。それでもただ自分の目の及ぶ範囲では、ただ丸くにしか見えないということなのだ。
さまざまなものごとも、これと同じようだ。普通であっても、気づきのある暮らしであっても、人は自分の能力の及ぶ範囲を見、そして理解するにすぎない。さまざまものごとありようを学ぶには、ただ丸い、四角いと見るだけではなく、残りの海のすがた、山のすがたも際限がなく、それ以外の世界もあることを知るべきだろう。また、身の周りのものごとだけではなく、すぐ足元の水一滴についても同じだということを知っていて欲しい。

 

魚が水の中を行くのに、どこまで行っても水に終わりがあるというわけでない。鳥が空を飛ぶのにも、どこまで飛んでも空に終わりがあるというわけでもない。そしてまた、魚や鳥は古来より水や空を離れることもない。ただ大きく行くときには大きく水や空を使い、少し行くときには少なく使うのみだ。このようにしてそれぞれがどこまで行き、飛ばない所々があるというわけでもない。
鳥がもし空を失えはたちまちに命をなくし、魚がもし水から出てしまえばすぐさま死んでしまうだろう。水があるからこそ生命があるのを知り、空があるから生命があるのを知るべきだ。また、鳥いるからこそ、魚がいるからこそ生命がある。そして命があるからこそ鳥があり、魚があるものなのだ。このほかにもさらに深めるべきこともあるだろう。たとえば実践とその証し、生きることと命の関係なども同じようなことであろう。

それなのに、水を知りつくし、空を知りつくしてから、水や空を駆け巡ろうとする魚や鳥があったとしたならば、水にも空にも道すじを見つけることはでぎず、居場所も見つけることが出来ない。居場所があるのであれば、居ることがそのままた居場所の実現なのだあろう。また、道すじがあるのであれば、そのあゆみがそのまま道すじとなのだろう。
この道すじや居場所というのは、大きいわけでもなく小さいわけでもなく、主観的でも客観的でもない。以前からあるわけでもなく今生じたわけでもないことから、「ただこのようにある」ものなのだ。
同じように人がもし「あるがままの姿」を実践しようとするであれば、一つのことをすれば一つのことがわかり、一つの実践に出会えば一つの学びがある。ここにも居場所や道すじがあるのだけれど、知ることのできる最果ての輪郭を知ることが出来ないのは、知るということが「あるがまま」とともに生まれ、「あるがまま」とともに同時に成立してくるからである。
学び得たことが必ず自分の知見となり、理性で判断できると考えがちになってはいけない。直ちにその場で”気づき”が実現したとしても、その密やかな心持ちは必ずしも明確に理解できるわけではない。また、はっきりとした理解も必ずしも必要ではない。

 

麻谷山の宝徹禅師が扇を使っている際に、ある僧が質問した。「空気はどこにでもあり、行き渡らない場所など無いと言われる。それなのにどうしてさらに扇を使うのですか?」
禅師は言った。「あなたは空気がどこにでもあることを知っていても、行き渡らない場所など無いということの道理を知らないようだ。」
僧が「では、その道理とは?」と尋ねると、禅師はただ扇を使うのみだった。僧はその姿に礼拝した。
そのままの自然の働きが明らかになること、正しい考え方を生かすこととは、このようなことなのだ。いつもあるのだから扇を使う必要はない、使わなくたって空気はあるというのでは、常にあるということや空気の本質を知らないのであろう。空気が常にあるからこそ、気づきある暮らしの実践は、大地を黄金に輝かせ、大河を恵みへと変えるのである。

 

正法眼蔵 現成公案

これは天福元年の中秋の頃に書き、九州の在家弟子、楊光秀に贈ったものである。